春の朝、神社の空気はまだ少し冷たかった。お宮参りの日、私は一本の古いレンズを持っていった。
うまく撮るためではなく、残すために。
お宮参りの撮影はプロに任せる?自分で撮る?
今回は、あらかじめカメラマンにも撮影をお願いしていた。
お宮参りという節目。きちんとした形でも残しておきたかったからです。
正直なところ、自分たちだけでは余裕がないと思っていました。
子どものこと、家族のこと、当日の段取り。写真に集中できる状況ではない。
だからこそ“任せる”という選択。
そのうえで、それでも自分の手で残したいものがあった。
持っていったカメラとレンズ構成
合理性では説明しきれない引力のようなものに引かれて、気づけば手元にあった一本のレンズ。そのレンズを、この日に持ち出しました。
持っていったのは、Summilux 50mm f1.4 1st。
そしてもう一本、Summilux 35mm FLE。
50mmは、この日のための主役として。35mmは、家族や空間ごと残すための一本です。
さらにX-T5にXF35mm f1.4も一応持っていきましたが、これらを自分で使うことはほとんどありませんでした。むしろ家族に渡して撮ってもらったり、 動画を残すための役割として持参しました。
日枝神社でのお宮参り当日
大安の春の日、都内はよく晴れていた。早朝の赤坂・日枝神社。少しだけ冷たさの残る風。
咲き始めの桜とこれから育つ我が子、どこか重なるものがあった。高層ビルの反射光は強買ったけれど、それでも境内には、やわらかい光もちゃんと届いている。
観光客と、お祝いに訪れた家族。静けさと賑わいが同居する、少し特別な空気。
家族もどこか緊張していて、それでも確かに嬉しそうでした。言葉にならない温度を、そのまま受け止めたかったんです。 だからこの日、迷わずこのレンズを選びました。


オールドレンズで感情を取り込む
いわゆる「よく写るレンズ」ではない。ピントは薄く、開放では滲みます。輪郭はときに揺らぎ、現代のレンズのような正確さとは少し違う方向にあります。
でも、その曖昧さが、この日の空気に合っていました。

少しピントを外したカット。本来なら失敗。でも、その一枚がいちばん感情を掬っている気がする。
このレンズは、すべてを説明しないレンズ。解像しきらないことで、写真の中に余白が残る。そこに、そのときの記憶や感情が入り込んでくる気がします。
余裕のない中で撮るということ
撮影の間は、泣きじゃくる息子に笑ってほしくて、代わりがわりにあやしました。
そのため、じっくり構えて撮影する余裕はほとんどありませんでした。
周囲に目配りしながら、わずかな隙を見つけて撮る。その繰り返しでした。
その点、記録写真のためにカメラマンを外注しておいて本当に良かった。
試写段階で見せてもらったカメラマンの写真は、どれも整っており、構図も表情も、安心して残せる一枚。
さすがだなと思う。そして、やっぱりプロユースはCannon機なのかと羨望。
一方で、自分の写真。どこか不安定で、ピントも甘い。
それでも、満足感を強く感じるのは、自分で撮った写真のほうでした。理由はうまく言えない。
ただ、そこに“自分がいた感覚”が残っているからかもしれない。
門出のためのレンズという考え方
このレンズは、門出のための一本だと思っています。生活の区切りや、新たな暮らしのはじまり。そういう場面では、必ず持ち出すようにしています。
お宮参りのような節目もそうですし、結婚式や、出会いや別れの場面もそうかもしれません。節目の瞬間は、あとから振り返ったときに、単なる事実以上の意味を帯びてくる感覚がある。
そのとき必要なのは、正確さだけじゃない。
少し曖昧で、少し柔らかくて、記憶に寄り添うような写り。そんな写真が、時間が経ったあとにしっくりと馴染む気がするのです。
お宮参りの写真を“残す”ということ
もしこれが現代のレンズだったら、もっと綺麗に、正確に残せていたと思います。肌の質感も、背景のディテールも、すべてが整った一枚になっていたはずです。
でも今回は、それを選ばなかった。「撮る」ためではなく、「残す」ため。
いつか見返したときに、その日の空気ごと立ち上がってくるように。
うまく撮ろうとしなくていい。少しブレてもいい。完璧じゃなくても、そのまま成立してしまう。
その不完全さが、その日のリアリティに近づいていく。

終わりに
子どもはあっという間に大きくなる。今日という日は、すぐ過去になる。
だから写真は、未来の自分への手紙みたいなもの。
完璧に写すためじゃない。この日の空気を、自分なりに引き受けるために。
きっとこれからも、門出のたびにこのレンズを手に取るんだ。
▼このレンズを手にしたときの心境については、こちらの記事に書きました。

