2024年、私は30歳を迎えました。
これまでの生き方では、雑多なモノへの消費や、流行に流された買い物などに興じてきましたが、近年では少しずつモノの選び方が変わってきたように自覚しています。
特に昨年は、大きな買い物であるM型Leicaのカメラ購入を契機に、モノの選好、すなわちこれからの人生で選んでいくモノの方向性について考えることが多かったように思います。
そこで今回は、何でも手に入る時代だからこそ、私たち一人一人がどのようなモノやサービスを選び取っていくのか、そしてそれによってどのように個人や人生が色付けされていくのかを考えてみます。
人生とは自らが注意を向けた事物・事象の総体である
いきなり仰々しい見出しとなりましたが、これは書籍(何の本だったか失念…)からの引用であり、的を射たフレーズだと共感したものです。以来金言の一つとしています。
確かに、人生というものが究極的には主体(=私たち一人一人)によるイベントの連続である以上、個々人の日々の選択によって取捨され、その中から残ったモノや経験こそが「その人の人生」だというのには納得します。人生のあらゆる場面における選択こそが、人生を形作っているともいえます。
さて世間に目を向けると、30代となれば経済的な裁量が取れるようになることも多分に起因して、消費する対象を選択する機会は増えることが予想されます。社会的なステータスや信用を誇示するための場合もあれば、将来設計のための長期的な目線での消費も増えることでしょう。家族形成をともなわずとも、住居や車、保険の見直しを筆頭に、時計や身だしなみの品まで、変わらずに学生時代のまま、というのは少なくなるように感じます。それは社会からの「そろそろいい歳だから良い時計は一本くらい持っていなさい」といった様な要請が減った昨今においても、自ずと生じる購買意欲なのではないでしょうか。
かくいう私は、格安のメガネにファストファッション、時計はApple Watch(かなりの年季モノ)と、さほど豪華な消費には縁を持たずに20代を過ごしてきました。衣服は機能性があって着用できれば良く、時計も時間がわかれば良いといったように、機能的な要件をこなせれば、それ以外の付加価値にはさほど重きを置いてこなかったのが事実です。(事実、予算的な事情が大い影響していることは念頭に置かねばなりません。)
それでも、趣味の対象として没頭できるものには一定以上の対価を投じていることを自負しており、ここに今後の考察のヒントがあるように思います。
ちょっとした無駄と贅沢で、人生を豊かな方向へ
冒頭の金言と、これまでの私の選好とを発展させ、30歳からのモノ選びでは、「ちょっとした無駄と贅沢で、豊かな人生を享受していこう」と決意しました。
今後はこのフレーズを言い訳に、多少の贅沢を許容していこうという悪巧みですね。
これまでの趣味に関連した購買場面を振り返ると、最初に中途半端な購入選択をしてしまうことで、後から上位モデルが欲しくなる(実際はほとんどが乗り換えてしまう)ことが多々ありました。初めに購入したものが機能的な要件は満たしているとしても、どこか物足りなく感じたり、羨望の感情が心残りになってしまうからです。
入門モデルではモノを使う高揚感や充実した体験、熱意が得られない様にも思えてしまう一方、高価なモノを選択したとて、すぐに飽きて手放してしまうことを恐れていたという側面もあります。
しかし30年も生きていれば、現在まで続いている趣味や、今興味を持った事象というのは自分にフィットした、親和性の高いモノであることが予想されますし、自分の感覚を信じて良い年齢になったのではないか、と思いたいのです。
趣味以外の買い物においても、長期的な目線で有用と思われる体験や、比較可能な中で最も優れているとされるモノ・スペックを試すことでこそ、得られる学びや視点もあるかと想定されます。それらが自分にとって持て余すほどのスペックであれば、それを認知した上で高値でリセールに出すことも可能でしょうし、後から指を咥えて「あちらにすればよかった」との後悔も減らせるはずです。
“自分に合うか否か、その選択によって自らの暮らしが豊かになるか否か、能力が高まるか否かは試してみないとわからない“とする、哲学者スピノザのコナトゥスの概念も参考になりそうです。
最後に、「機能的な要件を満たすだけで十分かどうか」という点において、「無駄や贅沢の価値」「消費と浪費の違い」についての思考の糸口になった学びを引用して終わりにしたいと思います。
「必要」の概念を考えるにあたり、生存に「必要」なモノ以外に着目するならば、それらは「不必要(贅沢や無駄、嗜好品)」といったことになります。しかしそれらは、「人間が人間らしく豊かに生きる」ためには活用可能と言えるのではないか。
一例として、完全栄養食やサプリメントのみで栄養補給して、機能的な要件を満たした生存はできたとしても、多くの人はそれらをしないでしょう。食を楽しむこと、食材の取れた地域や調理方法の文化などに思いを巡らせて「無駄や贅沢を楽しむ」ことこそ、モノそのものを楽しむこと(浪費)につながり、人生を豊かにするきっかけになるかもしれません。
目まぐるしく変わる流行に飲まれて、社会の消費サイクルに組み込まれるのでなく、モノそのものを楽しむことで人間にとっての豊かさを取り戻せないでしょうか。何もかもが目的に還元される社会(それをやって意味があるか、コスパやタイパに優れるかといった点ばかりを重視)で、「必要」なだけの消費から逃れ、そこから少しはみ出た「無駄」なものにこそ豊かさを見出したいものです。
※國分功一郎さんの書籍「暇と退屈の倫理学」「目的への抵抗」「手段からの解放」から、解釈を加えて記載しています。シリーズ化されているほか、学生との対談形式になっている本も含まれますのでぜひ書店でご確認下さい。

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